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  • 11/24/00:05

10.07.21:25

鹿児島県の高校の歴史

「東大合格高校盛衰史」では、鹿児島県について以下のような内容が掲載されています。
当時の進学指導の厳しさを知ることができます。

「鶴丸とは勉強するところなり」。51年、県立鶴丸高校の在校生と新人生との対面式で、生徒会長はこう宣言した。「がやがやとしていた新人生は、一瞬あっけにとられ、その顔から稚気かうせ、緊張がさっと走った」(『創立百年鹿児島県立鶴丸高等学校』94年)。
 
鶴丸の授業は厳しかった。60~70年代には朝1時間の補習、7時間授業を経て放課後は1時間の補習という9時間授業。校長は「毎日四時間から五時間の宅習」と叱咤する。
こんな投稿まである。「予習や宿題を怠ると男女の別なくコンパス(黒板用の?)でぶんなぐられ、あるいは校庭を走らされました。(略)十二指腸かいようで出血しながらも輸血してがん張った人もいました。内臓をこわして二十キロもやせ、幽霊のようになりながら出てきた女子もいました」(『いま学校で・高校生(2)』(朝日新聞社、79年)。
 このころ、元TBSアナウンサーの有付かおりさんは鶴丸から文三に現役合格。こう話す。「高校がとても面倒見がよくて(略)授業の予復習をちゃんとやっていれば、東大入試に必要な基礎力と思考力がたたき込まれた」(『週刊朝日』05年11月11日)。
 
甲南高校も進学指導は厳しかった。86年は県内の.公立高校で国立大学合格者数1位になる。
戦後まもなくは小学区制で、区外の生徒は鶴丸、甲南に入れなかった。そこで、選ばれたのが、50年設立のラ・サール高校。共学に抵抗を抱く父母が少なくない土地柄ゆえ、男子校のラ・サールの株は上がった。県外からの生徒も集まり、東大合格者を増やしていく。

 50年代、鹿児島市立鹿児島玉龍高校の池畑盛義校長は、学区内からラ・サールに進む生徒をみておもしろくなかった。市議会で「教育効果を上げるために中央の刺戟が必要」と訴え、東京から予備校講師を50万円の支度金を準備して招聘した。学区外の優秀な中学生には奨学金を用意して勧誘する。池畑校長は述懐する。「わたしは学区あらしの犯人扱いされた(略)いい生徒が集まらねばどうにも成績はあげられぬと思ったし、学校発展の基礎を作るには人並みのことでは人並みのことしかできぬと思った」(『玉龍30年の歩み』70年)。

 こうして甲南、鶴丸、鹿児島玉竜の生徒争奪戦が始まる。学区制は有名無実化し、当時、鶴丸では生徒の3分の1近くが下宿生だった。70年代以降、学区制の遵守、補習の自粛、教職員の異動を徹底され、争奪戦は影をひそめることとなる。

 80年代、私立のれいめい、志學館が登場する。90年代になると池園学園池田が出てきた。
同校は、90~09年までの東大合格者累計で甲南を追い越してしまう。池田学園池田の前身は塾であり、鶴丸、ラ・サールに大量の合格者を出していた。
 
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